藤原惺窩誕生地
近世儒学(朱子学)の開祖と仰がれた藤原惺窩は永禄4年(1561年)冷泉参議藤原為純卿の第三子として此の地に生まれた。七、八才の頃より、龍野の景雲寺において禅僧として修行中、父為純は別所長治の急襲を受けて討死した。凶報に接した惺窩は、母や弟妹を伴い京都にのがれ相国寺に入った。彼が十八才の時である。以来、学ぶところ幅広く、深く研鑽を積み、ついに儒者となり、書において通ぜらるなしと天下に認められるに至った。その後、朝鮮出兵の捕虜として抑留された儒学者姜杭との出合いで感化を受け、ついに近世朱子学完成の偉業を樹立した。徳川家康には知遇を得て江戸にも招かれ治国の道を説き、度々儒学を伝授している。また、家康には、二千石の高禄を以って招かれたが、学問の自由を守って仕官を好まず、自らは清貧に甘んじ、洛北市原に山荘をかまえ悠々自適、学研に励んだ。元和5年(1619年)九月十二日、五十九才の生涯を終わった。門弟、林羅山、松永尺五、那波活所、堀杏庵はその四天王といわれ多士済々である。忠、孝、義を基本として礼節を尊び、大義名分を大切にした惺窩の学説(朱子)は、形式面においては、羅山により徳川幕府の官学として継承された。内容面は京都における尺五らに伝えられ、京学派として豊かな高い人間性を推進する本格的な学問として我が国の道徳として思想形成の上に大きく貢献した。心学五輪書、仮名性理竹馬抄、惺窩文集は数多い著書の代表作と言われている。墓は京と相国寺にある。
冷泉家
関白 藤原道長の第六子長家を祖としている。当初は御子左家と称した歌道の名門である。平安時代の末頃、俊成は千載集を著わした。その功により歌所の所領として細川の庄(細川町)を朝廷より賜り子孫に伝えた。その子、定家も新古今集を著わすなど我国随一の歌人と仰がれた高名な人であった。為家の死後、長男為氏はニ條家を次男為教は京極家を異母弟為相は冷泉家を興した。この時代為氏と為相とに細川の庄の領有をめぐって相続争いが起った。為相の母、阿仏尼は鎌倉幕府に訴えるため、関東に下った。有名な十六夜日記は、この時の紀行文である。訴訟の結果、細川の庄は冷泉家の領有と成った。室町時代の中頃、冷泉家は故あって二つに分かれた。此の頃の家系はニ條家と絡み合って複雑ではあるが、水上にあった方を上冷泉家、水下にあった方を下冷泉家と区別して呼ぶようになった。そして細川の庄は、下冷泉家に引き継がれた。やがて、応仁の乱により、京都が焼け野原となった為、政為の頃から領国である此の地に住まわれ、時折、御所に伺候された。惺窩はこの下冷泉家に輩出した。天正6年別所長治の不意打ちを受け為純長子為勝は討ち死にして、下冷泉家は廃絶したが、惺窩の子、為景は後光明天皇より下冷泉家の再興を許され公卿として代々朝廷に仕えた。
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